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明智光秀ゆかりの地「明智城跡」

明智光秀生誕の地「明智城跡」

「明智城」と明智光秀はどのような関係があるのかご紹介していきましょう。

明智城は、康永元年(1342年)に光秀の同族である土岐頼兼によって築城され、その後約200年もの間、明智氏の居城になったと言われています。光秀はわずか11歳で城主になります。明智城が廃城となったのは、弘治2年(1556年)に斎藤義龍(さいとう よしたつ)の攻撃によって落城したと伝わります。斎藤義龍は、当時の光秀の君主である斎藤道山(さいとう どうざん)の息子です。斎藤道山と斎藤義龍は親子でありながらも対立し、道山は敗れてしまいます。

そして、斉藤道山に味方した明智一族は斉藤義龍に攻めいられ、「明智光安(光秀の叔父)」は兵870名と共に明智城に籠って戦いますが、義龍の軍勢は約3700名の大軍でもあり徐々に要所を破られ籠城2日目にして奮戦虚しく落城します。多くの明智一族が亡くなりましたが、明智本家の幼い当主であった光秀は、お家再興を託され落ち延びることになるのです。ですが、明智城は再建されることなく廃城になったと伝わります。

 

明智城跡の「本丸跡」

現在は岐阜県可児市指定史跡として、本丸跡、曲輪、土塁などの遺構を見ることが出来ます。

明智城跡は標高は175m、中央に本丸を築き、別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設を配置させていたと考えられています。大手口跡より緩やかな山道を登ると10分ほどで本丸跡に着きます。本丸跡には牌石(写真左)があり、この落城での戦没者を葬ったと言う「七ッ塚」(写真中央)は出丸跡付近に、ひそかに村人が建立したという「六親眷属霊魂塔」があり見張り台跡付近に残されています。また、この七ッ塚付近には馬場跡があり、敵の通過を防ぐ「馬防柵(写真右)」が再現されており、当時の臨場感が味わえます。

本丸跡奥には展望デッキもあり北側の明智駅方面が一望でき、織田信長の小姓として有名な森乱丸が城主だった美濃金山城跡も見えます。光秀もここから城下町を見下ろしていたのかもしれませんね。

 

 

【 明智城跡の基本情報 】

〒501-0213

岐阜県可児市瀬田5丁目1238-3

入場料:無料

営業時間:24時間

駐車場:有(無料)

※本丸跡にはベンチやトイレもございます。

 

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