
鬼岩の伝承に準えた御朱印とお守りです
●鬼岩川の流れに沿って歩道を300メートル登って下さい。岩壁の谷間に岩屋があります。
八百余年の昔 刀工の町現今の岐阜県関市から追われる様に流浪して来た太郎と言う男が東山道の路上に在るこの山の岩屋に住み着き野荒、放火強盗等悪逆の限りを盡し近郊近在の里人や街道往来の旅人を畏怖させました。
”恐ろしや次月の奥の鬼すすき”の古句が残っているのもその故であります。
●後白河法皇より「討伐せよ」との院宣が下され、京都から屈強な武士達が派遣されました。
当時の地頭纐纈源吾能康公達と相計り御嵩町に現今も続く蟹薬師寺祭礼の場に於いて遂に逮捕処刑されました。
臨終に際して前罪を悔み遺言通りの善鬼と化して魔除けの佛と成りました。
鬼岩観光協会より
●この歴史に準えてお守り、御朱印をお作りし、”二十八宿”に於ける【鬼宿日】には鬼の岩屋に赴いてお経、祈願を行なっています。
また、毎月最終金曜日(プレミアムフライデー)や、福鬼祭り、お正月等には金色の御朱印の授与も行なっております。
●念珠ブレスレット、その他アクセサリー(イヤリング、ネックレス等)の修理、リメイク、作成も行なっております。
~少し違った角度の伝説~
『鬼の首塚(天神塚)町重文』
伝説によれば鎌倉時代の建久、明治の頃(1190~1200)凶暴で悪行三昧の男が次月の鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め住民を大いに大いに悩ませました。
この者は西美濃不破の関の生まれであったため、住民はこれを「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び恐れていました。そこで正治元年(299)人々はこの地の地頭交告源吾盛康にこの惨状を訴え退治してもらうことにしましたが盛康は京の地にあり、おいそれと帰る事が出来ませんでした。そこで自分の家臣四名に太郎の退治を頼み御嵩の地に帰しました。ところが、なかなか太郎を討つ事が出来なかったため、蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、そのお告げの通りに四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、それを捕らえられ首を切る事ができました。
四人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都へ運ぼうとしたところ急に首樽が重くなり一歩も進むことができなくなりました。
すると首樽を縛っていた紐が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、それをこの地に埋めました。
これが「鬼の首塚」の由来といわれています。首塚のあるあたりを「桶縄手」と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十返舎一九もこの地のことを詠んだ歌を残しています。
「桶縄手 今もその名を朽ちさりき 塩漬けにせし 鬼の首かも」
御嵩町観光協会より